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図書展示「奈良の夜明けあと」(イメージ動画あり)

 本展は、令和4年1月29日から2月24日まで3Fブリッジで開催しています。かつて作家・星新一は、明治日本の世相や風俗、ゴシップなどの新聞記事から近代化の流れをたどる編年史『夜明けあと』を出版しました。これにならい、当時の新聞が報じた奈良のニュースを収集して『奈良版・夜明けあと』を編集し、Twitter「#奈良の夜明けあと」で順次発信するとともに関連図書や歴史的公文書などを展示しています。

↓↓イメージ動画はこちら↓↓ ※本展は終了しました。

 明治時代の奈良は、文明開化でどのように変化していったのでしょうか?当時の人々にとって主な情報源は新聞記事でしたが、日本で日刊新聞が創刊されたのは明治3(1870)年。それまでは「太政官日誌(後の官報)」など官版の日誌が新聞に近い存在でした。Twitter「#奈良の夜明けあと」は、太政官日誌に掲載された血なまぐさいニュースから始まります。御一新後といっても、戊辰戦争の終結は明治2(1869)年、西南戦争は明治10(1877)年の出来事です。“文明開化”のイメージからは想像しにくいかもしれませんが、仇討ち禁止令の布告は明治6(1873)年、斬首刑にいたっては明治15(1882)年まで残っていました。

『明治六年七月迄 当県布告全書 奈良県 布告掛』より、仇討ち(復讐)禁止令

 行政区画も、ついこの前まで大和国だったのが奈良県になり、それが府になり、また県に戻り、分割したり無くなったり復活したり・・・。その間、神社仏閣の多い奈良は廃仏毀釈の嵐に見舞われ、のちに復興のための奈良博覧会が開催されます。また、奈良公園の設立や交通の発達などにより、奈良には他府県からの観光客のみならず、外国の要人も次々と訪れるようになりました。

『大阪府治一覧概表』より、明治15年ごろの大阪府管内全図
『明治十二年 明治二十六年 独逸皇孫、澳国親王御来訪一件書類』
『明治廿四年四月露国皇太子殿下款待書綴』(共にケース内展示)

 人々の暮らしも目まぐるしく変化します。例は枚挙にいとまがありませんが、移動ひとつとっても、人力車の営業開始が明治5(1872)年、明治23(1890)年には鉄道が開通し、明治43(1910)年には自動車が走りました。こうした変化は新聞記事に現れ、それらを時系列に追うことで、時代の移り変わりを感じることができます。

『さる沢池乃端旅亭 金波楼』
『さる沢池乃端旅亭 金波楼』(部分)

 上の絵図をご覧ください。猿沢池の周りを人や鹿が行き交う中に、人力車が数台描かれています。しかし、左上に書かれている発行年は、江戸時代末期の文久3(1864)年。いったいどういうことでしょうか? どうやら、明治5年以降に人力車を描き加えたようです。男性の髪型は丁髷(ちょんまげ)で、刀を差している人もいますが、当時の風景として特に違和感はなかったのでしょう。明治13(1880)年に出版された下の図からも同じことが言えます。人力車が数台描かれていますが、人々はまだ着物のようです。黒い傘をさしている人が何人かいますが、これは文明開化で流行した蝙蝠(こうもり)傘と思われます。明治初期の奈良はこんな感じだったのです。

『長谷名所一覧之図』
『長谷名所一覧之図』(部分)

 明治中期になると、いよいよ奈良にも鉄道が敷設されます。最初は大阪鉄道(私鉄)による明治23(1890)年の奈良〜王寺間で、翌年には王寺~高田間、翌々年には奈良~湊町間が開通します。その後も、明治29(1896)年に奈良~京都間(奈良鉄道)、高田~五條二見間(南和鉄道)、明治 31(1898)年に大仏~加茂間(関西鉄道〔通称・大仏鉄道〕)、明治 32(1899)年に奈良~桜井間(奈良鉄道)など、次々と鉄道網が整備されていきました。その間、計画しても認可が下りなかった路線もあれば、実現しても大仏鉄道のように廃止となった路線もあります。中には、明治32年創立の吉野鉄道株式会社のように、直前で敷設されなかった幻の路線もありました。当館寄託資料「永田家文書」には、吉野鉄道敷設に関する史料が残されています。

『奈良鉄道線路附近社寺及名所案内』
永田家文書(奈良県立図書情報館寄託資料)より、「吉野鉄道全線路平面図(部分)」
永田家文書(奈良県立図書情報館寄託資料)より、「[機関車図](部分)」

 明治後期には、日本を自動車が走るようになります。明治43(1910)年5月9日、インドのヴァドーダラー(当時の表記はバロダ)から自動車を携えて来日中の王(マハラジャ)が、自動車で世界旅行をしていたアメリカのフィッシャー夫人(Mrs. Clark Fisher)一行とともに京都から自動車2台で奈良を訪れ、春日大社や大仏殿などを見学した後、奈良ホテルに宿泊しました。このマハラジャが乗っていた6人乗のフィアットを東京の山口勝蔵商店(機械商)が譲り受け、翌明治44(1911)年に“全国周遊自動車旅行”を企画・実行します。その旅行には山口とその運転手のほか、国民新聞・東京日日新聞・東京朝日新聞の記者が同乗し、新聞紙上にレポートを残しました。奈良には7月30日に到着して菊水楼に宿泊し、その時の記事「自動車大周遊 アサヒ号奈良に入る」が8月1日の東京朝日新聞に掲載されています。

 さて、今回のニュース収集には、主に当館所蔵の『日新記聞』のほか、書籍『新聞集成明治編年史』やオンラインの新聞記事データベースを利用しました。『新聞集成明治編年史』は国立国会図書館のwebサイトで目次と1940年版の画像が公開(2022/2/1 確認)されているので、ぜひ各地域の「夜明けあと」をたどってみてください。


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