「畠中尚志全文集」【#図書館員の気になる一冊】
スピノザは17世紀のオランダの哲学者です。44歳で亡くなるまでに出版された著作は2冊しかなく、彼の主著とされる『エチカ』も、死後友人たちの手による遺稿集として出版されたものでした。ところで話は変わりますが、生前にたいへんな数の作品を残し、当時は時代の寵児になっていた人も、時代の波にさらされ、すっかり忘れられてしまうということは多々あることです。
文学者であれ芸術家であれ学者であれ、時間という誰も避けることのできない波に翻弄される存在であることはどうすることもできないというか、その人本人には例えばその著作や作品がどのようになってゆくかを見定めることができません。できることはせいぜい、生きている間の名声を保つことに汲々とすることか潔く表舞台から去ることでしょうか。そんななか、スピノザはそもそも表舞台には立たず、自らの思考に沈潜します。ただし、隠遁していたわけではありませんでしたが。彼の哲学的思考は、他の哲学者同様、時代の空気や背景に依存しています。
17世紀は社会的政治的な一大転換期でもありました。今日の国民主権や社会契約といった近代的な概念が生まれてくる所謂近代の始まりともいえる時代です。そのようななかで、このオランダの哲学者は、独自の光を放っています。彼にはレンズ磨きによって生計を立てたという有名な伝承がありますが、その真偽はともかく、光源から放たれる光をどのように受け止め解釈し表現するのか、彼のレンズ磨きはその象徴的なメタファーだといえるような気がします。
もう一つ付け加えておきますと、同時代の画家フェルメールの絵にたいへんな関心を持っていたということです。フェルメールが光の画家といわれることとも合わせてたいへん興味深いことだと思います。(参考:『スピノザ 読む人の肖像』國分功一郎著 岩波新書 2022.10)
さて、気になる一冊ですが、この寡作で孤高な哲学者の著作の翻訳に一生を捧げた日本人がいます。その生涯に公にされたのは、スピノザの全著作の翻訳(岩波文庫8冊)と読書雑誌などに寄稿されたエッセイやスピノザ以外の翻訳書(岩波少年文庫『フランダースの犬』(現在の版は、 野坂悦子訳)のあとがき)などごく限られたものでした。正岡子規と同じ脊椎カリエスで苦しみながら、口述筆記により翻訳していたこともあるという彼の全文書を集成した『畠中尚志全文集』(講談社学術文庫)です。
また、ここでスピノザの哲学を詳細に述べることはできませんが、スピノザの生涯と彼の思考と格闘しながらその思想を解読する國分功一郎著『スピノザ』(岩波新書)は、國分とともにスピノザの複雑な森に分け入る疑似体験ができる好著です。読み終えるのにそれなりの労力が要りますが、報われる読書体験となると思います。そして、刊行中の完全版『スピノザ全集』全6巻、別巻1(岩波書店、現在3巻刊行)を挙げておきます。本丸(原典)を覗いてみる醍醐味があります。
現代においてスピノザを知ることは、時代の変わり目に考え格闘することとその複雑な分からなさと付き合うことです。そして畠中の極めて寡欲でスピノザを彷彿させる学びの姿勢には頭を垂れることしかできません。ちなみに『フランダースの犬』のあとがきは、愛情に満ち、行き届いたあとがきになっていて、何十年ぶりかで思わず鴎外の『うたかたの記』を読み直しました。
(いぬい そういちろう)
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